30 days to U.S.S Enterprise

7/19-スタトレ最新作公開まで、カーク(クリス・パイン)、スポック(ザカリー・クイント)関連の英語記事訳に 30days challenge

「華麗なるギャツビー」、教養という前提

華麗なるギャツビー」、3回目を観に行こうかと思っています。何回観るんだよって話ですが、何回も観たいんですよ。何回も観たい、というよりも何回も考えたいんです。

 

今日、華麗なるギャツビーを観た、という友人数人が、「あんまり面白くなかった」という感想を口にしていました。どうやったらそんな感想がでるんだ!と聞いてみたところ、どうやら予告を観た皆は、「想像していたストーリーとは違った」「もっとギャツビーの謎が最後に大々的に明かされるのかと思っていた」というように、ある種の「ミステリー」ものを想像していたようです。

 

この映画って、そもそも「華麗なるギャツビー」を教養として読むことが楽しむ前提だと思います。映画としての物語ではなく、フィッツジェラルドが描いた1920年代のアメリカに生きる人々を通してみる私たち自身についての小説の映画化です。

 

たとえば、物語を書いたとして、それが映画でもアニメでも小説でも漫画でも、その物語は物語として楽しまれます。だけど、この「華麗なるギャツビー」の映画化は、皆が当たり前に知っているギャツビーがどう映画化されるのか、そこを楽しみにしていくものだと思っていました。

 

だから、私は映画の予告を観た時は「あの小説がどういう映画になるんだろう」という期待で胸を膨らませていたのです。決してそれは「この話はどういう話なんだろう」ではないのです。予告を観ると、謎の男ギャツビーとなっていますが、それはあくまで一種のお約束文句に過ぎません。例えば主人公がピンチに陥って、次回予告で「彼の運命はどうなる!?」という予告と一緒です。助かります。助かるし、敵を倒してめでたしめでたしです。でも、一応つけるんです。それと変わらない。

 

予告を作った人は、あまりにも「華麗なるギャツビー」は有名過ぎて、人々がどういうストーリーを予告から求めるかを考えなかったのではないでしょうか。皆が当たり前に物語を知っていたら、いかにその映画が完成され、魅力的に映っているかが分かる場面だけを抜き出します。「白雪姫」や「かぐや姫」が映画化されたとして、ストーリーが分かるように宣伝しますか?「この話はどんな話なんだろう」とわくわくさせる宣伝をしますか?しませんよね。だって皆ストーリーについては知ってるんだもん。

 

けれど、「華麗なるギャツビー」はもはや教養ではなくなってしまったのでしょう。当たり前に読むはずの小説が、当たり前に読まれていないから、ギャップが生じる。あまりにも教養として有名な作品が映画化された場合、ストーリーに面白さを求めてはいけないのです。

コメディでも、ミステリーでも、ホラーでも、ラブストーリーでもありません。娯楽映画ではないんです。

 

ラズ・バーマンのギャツビーは、それでも娯楽的な要素を取り入れて上手く映画化していたと思います。

 

ただ、「華麗なるギャツビー」が教養であるという前提が、もはや通用しなくなったというギャップが、「つまらなかった」という感想を生むのかもしれません。決して製作者、鑑賞者が悪いわけでもない。あえていうなら、宣伝をする人たちが、そのギャップに気付くべきですが、それはあまりにも難しいし、目を向けたくない驚きと悲しみの現実だと思います。

 

製作者側は教養作品に多く触れます。宣伝する側も。けれど、鑑賞する側がそれを知らない。そしてどんどん、両者の間にギャップが生じる。結果、鑑賞者側に合わせて物語を作ることになる。こうなると受ける作品というのは、もはや教養作品ではありません。わかりやすくドキドキわくわくする作品。

 

個人的には悲しいですが、誰も悪くないから難しいですね。鑑賞者にもっと教養作品を読んでほしいと思いますが、もはや教養はある種の世界でした必要のないものだから、強制はできませんし。

 

ただ、あまりにも「描かれている物語の向こう側」に皆が目を向けなくなっているのは、問題だと思います。こればっかりは、教育と世の中の所為にせざるを得ません…。つまりどうしようもない。