30 days to U.S.S Enterprise

7/19-スタトレ最新作公開まで、カーク(クリス・パイン)、スポック(ザカリー・クイント)関連の英語記事訳に 30days challenge

華麗なるギャツビーのニックであれ

昨日抜いた親不知が幸いあまり痛みを発していません。

どうやら上手い先生に当たったようで幸運でした。

 

今日は、朝から用事があり家具屋めぐりをし、夜からは哲学科の先生と友人とお酒の席へ。もちろん昨日の今日なのでお酒は飲みませんでしたが。

 

哲学科の友人と飲むとやっぱり心地いいですね。弾むような楽しさよりも、落ち着いた満足度に浸って帰り道を歩けるというか。考えていることはやっぱり全然違うけれど、その考えの違いを否定されないってことがすごく大きい。

 

華麗なるギャツビー、最近二回観ました。もともと、小説を読んだことがあって、今回の公開はとても楽しみにしていました。ギャツビーは見るたびにいろんなことを考えさせてくれる映画です。一度目は、皆誰かのデイジーであり、皆、ギャツビーであるんだ、と感じました。どうしても忘れられない人っていますよね。その人を追いかけてしまうギャツビーを皆心に持っていると思います。もちろん、それが表舞台にでるかは別ですが。

 

二度目に見た時は、私はニックなんだ、ということでした。正確には覚えていませんが、ニックが「僕は当事者であり、同時に部外者だった」というようなセリフをいいます。ものすごく乱れた酒浸りのパーティーをしながらも、その自分自身の姿をもう一人の自分が外から見ている。この状態、私もいつもなります。結局、いつもパーティーの中に入っていって、楽しんでいても、ある瞬間にもう一人の自分がオートマチックに表れるんですよね。

 

あの映画ではニックが一番つらい立場だと思います。純粋なギャツビーにもなれず、トムやデイジーの醜さを見て、けれど彼らを怒鳴りつけることができない。どちらの側も見えるけれど、自分はどちら側でもない、ただ、傍観者であり続けなければならない。

 

デイジーやトムって生きるのがすごくうまいと思います。だからこそ簡単に人を傷つけて何も思わない。ギャツビーは逆に、強く生きようとする努力がすごい。だから簡単には傷つかないし、傷つけられても何も思わないと思います。

 

だけどニックは生きるのがうまくない。簡単に傷つけられるし、傷つけられたら悩みます。すごく弱い存在ですよね。だけど、ニックがいなければ、ギャツビーを認識する人はいなくなる。デイジーやトムの醜さを見つけることができる人はいなくなる。苦しんでいる立場のニックだからこそ、すべてが見える。そしてすべてが見えるからこそ、さらに苦しむのだろうなぁ、と思います。

 

人間には、トムやデイジーである人、ギャツビーである人、そしてニックである人がいます。自分がどの役なのかを、考えたら、おそらくニックなのだろうな。

 

華麗なるギャツビーでは主役はギャツビーです。けれど、主人公はニックです。

主役にはなれない。けれどいつも物語の主人公であろうと思いました。 そうすれば、パンドラの箱の中のギャツビーという希望を見つけることができるかもしれないし、いつかあの光に手が届くかもしれないから。たとえ苦しみながらでも、暗闇の中で楽しく踊り続けることはできません。ニックという存在はすぐに目を凝らして光を探してしまうんだろうなと思います。